2015年 11月 30日
86番・志度寺 |
志度寺は香川県東部、志度湾に面して建立されている。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹で、海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われる。
その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立しその息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄え、又、能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。志度寺には「海女の悲しい伝説(玉取り伝説)」が残っています。
仁王門は、寛文10年(1670年)、藩主松平頼重によって建立され、左右に立つ木造金剛力士像は、鎌倉時代の運慶の作と伝えられ、本堂は国指定の重要文化財。
寺 名/86番札所補陀洛山志度寺 (ほだらくざんしどじ)
宗 派/真言宗
本 尊/十一面観音菩薩
開 基/藤原不比等
創 建/推古33年(625)
ご真言/おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
仁王門:鎌倉時代の運慶の作と伝えられる木造金剛力士像
多宝塔:五重塔
大師堂と本堂前の広場(境内地一万坪)
その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立しその息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄え、又、能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。志度寺には「海女の悲しい伝説(玉取り伝説)」が残っています。
仁王門は、寛文10年(1670年)、藩主松平頼重によって建立され、左右に立つ木造金剛力士像は、鎌倉時代の運慶の作と伝えられ、本堂は国指定の重要文化財。
寺 名/86番札所補陀洛山志度寺 (ほだらくざんしどじ)
宗 派/真言宗
本 尊/十一面観音菩薩
開 基/藤原不比等
創 建/推古33年(625)
ご真言/おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
仁王門:鎌倉時代の運慶の作と伝えられる木造金剛力士像
一万坪の広い境内の片隅にある書院から見た曲水式庭園「無染庭」は室町時代の作庭で、天に向かいそびえる力強い石組が印象的。書院の正面に作庭された無染庭は禅式枯山水庭の定型を採り竜安寺を感じさせます。拝観料無料。
海女の墓:亡き母の追善菩提のために藤原不比等の次男房前公が、行基に法華八講の修法を営ませて堂宇を建立、千基の石塔群に自ら写経して経塚に奉納したもの。
「海女の悲しい伝説(玉取り伝説)」とは、天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高宗妃から送られた面向不背の玉が、志度沖で龍神に奪われた。
この玉を取りもどすために藤原不比等は、身分を隠し志度の浦を訪れますが、3年たっても玉を取り返すことが出来ませんでした。
そのうち、不比等は美しい土地の漁師の娘(海女)との間に房前(ふさまえ)という男児をもうけます。
ある日、不比等は自分の身分と都から志度に来た目的を海女に話しました。
不比等から事情を聞いた海女は我が子、房前を藤原家の跡取りにしてほしいと頼んで、竜神から玉を取り返すために死を決意して、海に潜りました。
竜神と戦って玉を奪い返した海女は乳房の下を切り裂き、そこに玉を隠して浮かび上がりました。そして、傷ついた海女は不比等の胸の中で息絶えました。
不比等は海女の死を悼んで墓を建て、死度(志度)道場と呼ぶ堂を建立し、海女の菩提を弔いました。そして、面向不背の玉は無事興福寺に納められました。
その後、京の都で藤原家を継いで大臣に出世した海女と不比等の子である房前は母の冥福を祈るため、行基を伴い志度を訪れ、諸堂を再建し、千基の石塔を建てました。その時、寺号を志度寺に改めたと伝わっています。海士の命日である7月16日には、「志度寺の十六度市」が開催されている。
その海女の墓は五重塔の横を抜けた境内の西北隅にあります。
by y-koba84-2
| 2015-11-30 16:05