2015年 12月 14日
79番・天皇寺 |
弘法大師が巡錫中、八十場(やそば)の泉の付近で霊感を得ました。そしてそばにあった霊木で十一面観世音菩薩像を刻み、堂宇を建立して安置しました。これが天皇寺の始まりです。
本堂・大師堂望む:三輪鳥居をくぐり左へ
手洗い
本 堂:弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置。
大師堂
大師堂に後光
鐘 楼
寺全景
八十場(矢蘇場)の泉(やそばのいずみ)
日本武尊(やまとたける)は、悪魚退治のためにこの地にやってきました。
しかし、悪魚の毒で日本武尊は八十八人の兵とともに倒れてしまいました。
そのとき横潮明神が泉の水を持って現れ、その水を飲むと日本武尊と八十八人の兵たちは回復しました。
そこで、この泉から汲まれた水を人々は、「八十八の水」「八十場の水」と呼ぶようになりました。
この泉は、今でもコンコンと清水が涌いています。
白峰宮:保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。
上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。
天皇寺は、崇徳上皇を祀る崇徳天皇社(現、白峯宮)の神宮寺となり、後嵯峨天皇が再建しました。戦国時代、長宗我部元親に焼き討ちされますが、筆頭末寺の高照院により、復興されました。
明治の神仏分離令により、境内は分割されましたが明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている
寺 名/79番札所金華山高照院天皇寺
(きんかざんこうしょういんてんのうじ)
宗 派/真言宗
本 尊/十一面観世音菩薩
開 基/弘法大師
創 建/天平年間(729~749)
ご真言/おんまか きゃろにきゃ そわか
三輪鳥居:天皇寺の正面にある。普通の明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせた珍しい鳥居で、奈良・大神神社など全国で3ヶ所にしかない。この横には源頼朝寄進の下乗石、上段には崇徳天皇社が配置されている。
日本武尊(やまとたける)は、悪魚退治のためにこの地にやってきました。
しかし、悪魚の毒で日本武尊は八十八人の兵とともに倒れてしまいました。
そのとき横潮明神が泉の水を持って現れ、その水を飲むと日本武尊と八十八人の兵たちは回復しました。
そこで、この泉から汲まれた水を人々は、「八十八の水」「八十場の水」と呼ぶようになりました。
この泉は、今でもコンコンと清水が涌いています。
白峰宮:保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。
上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。
by y-koba84-2
| 2015-12-14 10:59